産業保健コラム

篠原 耕一


所属:社会保険労務士法人 京都綜合労務管理事務所 所長

専門分野:労働安全衛生関係法令・労働基準関係法令

新たな化学物質管理の開始にあたって

2024年3月1日

 国内において産業界で使用されている化学物質は約7万種類とされている。うち、有機溶剤中毒予防規則や特定化学物質障害予防規則、鉛中毒予防規則といった特別則にて、作業主任者の選任、局所排気装置等の設置、作業環境測定の実施、特殊健康診断の実施等が厳しく義務付けられている化学物質はわずか123種類で、ほとんどの化学物質はこうした厳しい規制の対象外となっていた。

 こうした特別則中心の化学物質管理が見直され、リスクアセスメントが義務づけられているラベル表示とSDSの交付が必要な674種類(令和6年4月1日以降は903種類。以降も追加されていく。)の化学物質についても、濃度基準値が設定されているものは基準値以下に、設定されていないものはばく露される程度を最小限度にすること等が義務付けられるが、その方法は事業主自らが選択する自律的な管理となっている。現行、特別則対象物質に対する厳しい管理と、これからも増えていくリスクアセスメント対象物質に対する自律的な管理の2本立てとなっているが、これまで措置が義務付けられていなかった化学物質にも少しずつ管理の目が届いていくことは意味があることである。

 そもそも、こうした特別則以外の化学物質に関する規制の拡大は、2012年(平成24年)に校正印刷会社で洗浄溶剤として使用されていた1,2-ジクロロプロパンに長期間高濃度ばく露されていた多数の労働者が胆管がんを発症していたことが社会問題化したことが大きな契機となった。それにしてもなぜあれだけ多くの労働者が発症するまで会社に居続けたのであろうか。その答えは、職業性疾病発症者を支援する労働組合の冊子で知ることができた。会社の人間関係が非常によくもともと退職者が少ない会社であり、それが逆にあだになったというようなことが記載されていたと記憶する。当時、連日のように報道されていたあの印刷会社はどうなったのであろうか。労働者の健康を軽視した会社が多数の胆管がんを発症させたイメージが残る。倒産は免れなかったであろう。

 しかし、あの印刷会社は現在も存続していることがわかった。もともと人間関係の良好な会社。多くの労働者が退職せずに残り、現在も従前どおりに稼働している。あのようなことがあっても多くの労働者が残る。そのような会社であれば、人を大切にする経営がなされていたはずである。なのになぜ1,2-ジクロロプロパンのような有害化学物質を選択し、使用させていたのであろうか。その経緯は、中央労働災害防止協会が発行している「胆管がん問題!それから会社は・・・」という書籍の中で、社長が語っている。当時、1,2-ジクロロプロパンは有機則等特別則の規制対象に入っておらず、世界保健機関(WHO)の機関である国際がん研究機関(IARC)の評価もグループ3「ヒトに対する発がん性について分類できない」とされていた。販売する側も、そして購入する側も、より有害性の少ない洗浄液を売買し、職場の健康管理を進めた認識であったに違いない。それがあの悲劇を引き起こしたのである。

 10年前産業界で使用されている化学物質は約6万種類と耳にしていたが、現在は約7万種類になっている。となると今から10年後には約8万種類になるはずである。1,2-ジクロロプロパンの例にあるように、多くの化学物質の危険有害性は実は未知数である。現行674種類のリスクアセスメント対象物となっている化学物質については、それを使用する事業者がリスクアセスメントを実施して自律的な管理で対応することが義務付けられており、リスクアセスメント対象物以外の大多数の化学物質についても、努力義務が課せられている。事業場内で中心となって化学物質の管理を行う者として、令和6年4月1日より、業種・規模を問わず、リスクアセスメント対象物を製造、取り扱い、または譲渡提供する事業場には化学物質管理者の選任が義務づけられる。

 現在も従前どおりに稼働しているあの印刷会社は、あれからどのような安全衛生管理を行っているのか。書籍の中で社長は語っている。

「安全管理者・衛生管理者、職長・作業主任者と資格者を増やし、教育も受けさせ、安全衛生委員会を中心に安全第一で事業を行っている。屋内の湿度を必要とする印刷業ではあるが、100%外部空気により換気し、品質維持に向け、足りなくなった湿度対策を重ねている。」

 新たに選任される化学物質管理者が、安全管理者や衛生管理者のもとで、現場の職長や作業主任者と連携し、働く人たちの協力を得て、重篤な災害を防止すべく効果的な化学物質管理が行われることを願う。

 何事もそうであるが、一人でできることは限られている。

篠原 耕一